山の上にある小学校には、嘗て鉱業会社が建てた神社がありました。
山神社のあった竹東は、昔は石油や天然ガスなどが採掘されたそうで、神社は鉱業会社によって建てられました。この神社には、他の祭神と共に天香久山神(あめのかぐやまのかみ)が祀られていました。天香久山神は神武天皇の詔を受け、越後に移り住んだ神様で、越後へ来た後、農業や漁業などの産業振興に努めて越後の発展に尽くし弥彦神社の祭神となりました。また、弥彦地方では昔から銅が産出され鉱山がたくさんありました。その関係で弥彦神社の祭神がこの地に祀られることになったようです。
現在は小学校の校舎の裏庭の一部になっていて、本殿跡には孫文の像が置かれておりました。
本殿跡の脇は草叢となっていて、その中に埋もれるように燈籠の胴体部分が規則正しく並べられていました。草に埋もれている燈籠の残骸は、日本人には気持ち悪く見えるかもしれません。
地元のお爺さんは、この場所を見ながら「昔の良い物は戦後にみんな壊されてしまった」と話してくれました。神社が地元の人にとって、本当に良いものだったのかどうかは分かりませんし、その言葉をそのまま肯定するつもりもありません。しかし、お爺さんがそのように思ってくれることには感謝しなければならないと思いました。
山神社跡 現員[山東]國民小學 新竹縣竹東鎮東峰路281號
本殿跡は綺麗に整備されていました。一応、孫文の像があるので手入れはしているのではないでしょうか。
でも、“日本統治時代の歴史遺産を歩く”の中で掲載されていた子供達が腰掛けているベンチのような燈籠群は草に埋もれておりました。